さて、“品質管理”の導入だけで、我が国製造業が極めて短期間に高度成長を成し遂げることができたかというと、それは違う。“品質管理”はあくまでも我が国製造業の欠けていた部分を補充しただけにしか過ぎない。しかも一般の人には簡単とは言えない、統計学をベースとする“品質管理”手法を駆使できる人材を、大量に促成栽培することなど不可能なことで、“何かがなければ”一朝一夕では不可能な取組であった。
そして当時の我が国製造業に存在した、この“何か”を私は、江戸時代以前から続く、我が国の文盲率の低さと、明治以降、欧米に追いつけ追い越せと、積極的且つ柔軟に学んだ様々な工学技術の質だと理解している。“品質管理”手法を駆使しようとするスタッフ達が、短期間でその技術を会得できなければ、驚異的な成果に結びつけまい。そのためには相応の下地を、事業に関わるスタッフ達が持っていなければならないことになる。
また、“品質管理”の手法を工場の末端まで徹底しないと、かつての(今も?)米国製造業の例で判るように、その効果は弱い。我が国ではQCサークルという方法で、末端までの徹底を図ったのだが、この部分で仮に文盲率が高かったり、現場ワーカーの基礎教養力が低かったら、高度成長時代のような成果は生まれなかったであろう。
ちなみに、私は大学で機械工学を学んだが、少なくとも力学をはじめとする機械工学の基本部分では、私が学んだ内容と戦前に機械工学を学んでいた人たちが学んだ内容は、全く同等であり、それらの学ぶための工学書籍は充分すぎる程揃っていた。学部レベルの内容では、海外の専門書を全く開く必要がなかった。
この例でも判るように、工学的センスを持ち、物づくりに関わることを目指す人材が、何の障害もなくその技術基盤を会得できる環境が、戦前から我が国には用意されていた。しかも自分の衣食を削っても、子供の教育に掛けようとする国民性が相俟って、高度成長を支えた豊富な人材を、供給してきたのである。
一方当時の我が国企業の経営にも“何か”が存在した。最近見直されつつある“終身雇用”と“家族的経営”だ。
年功序列はともかくとして、終身雇用と家族的経営により培われた全員参加意識と愛社精神は、1960年代から始まる高度成長時代を強く支えた。圧倒的に技術的な差を付けられていた、欧米企業に果敢に立ち向かい、彼らの技術を隈無く吸収して、圧倒的な高品質製品を世に送り出せるようになるまでに、20年を待つ必要がなかったのである。
しかしこの評価すべき且つ守るべき伝統が、バブル崩壊を契機に失われようとしている。それまでの“それ行けどんどん”で言う無策なバブル経営を続けていた“ダメ経営者”達が、自己保身を最大の目的とし、一気にその帳尻合わせに走ったからだ。
その最たる物は、戦略性のない、帳尻合わせのリストラ(人員削減)である。“ダメ経営者”にとって固定費の削減に最も効果がある手立ては、人員削減と工場などの事業所売却だ。
当時の我が国製造業の多くは、バブル崩壊に伴う国内不況で大幅な収益低下を起こし、単年度赤字を出す企業が続出した。しかしバブル時代に本業以外の事業参入(ゴルフ場やリゾートホテル経営など)や、マネーゲームに手を染め、その結果膨大な不良債権を抱え込んだ“愚かな企業”を除き、多くの製造業の体質は、それまでにため込んだ潤沢な資金や資産により、実は健全状態にあったと承知している。
ところが、一気に暴落した我が国製造業の株価は、欧米ファンドの餌食とされ、“株主の利益が全て”との価値観を持った、株主支配構造に組み入れられる製造業を各所に生んだ。彼らは、年度ごとの収益バランスどころか、四半期単位の極めて短いスパンで経営内容を評価し、近視眼的な株主要求を企業経営者に突きつけてくる。
バブル以前は、この特性が欧米企業の弱点となり、長いレンジを睨んだ企業経営ができず、目先の利益だけを追求した製品開発を行うのに対して、長いスパンでの計画的な企業戦略を持ち、着実に製品開発を行って来た我が国製造業との差となり、我が国製造業が全世界のマーケットを席巻していた。
確かに、今現在欧米企業や後発の韓国企業が市場の多くを押さえてしまった感のある、パソコンに代表される電子機器のマーケットでは、デルモデルに代表される、“他人の褌で相撲を取る”ビジネスモデルの方が、短期収益を着実に上げ続けるためには、圧倒的に優位である。
しかしこのデルモデルも、ハードディスクなど高品位な機能部品を供給してくれる、サプライヤー抜きでは、成立できないモデルであり、コアー機能部品の大所を押さえている、我が国の電子部品メーカは、彼らに美味しいところを横取りされていると言っても過言ではない(最近では韓国や台湾のメーカがこの分野でも育ってきたが)。政治を巻き込んだビジネス展開も含め、我が国製造業の下手さ加減が目立つ部分である。
一方、ここに来てビックスリーを守ろうと、我が国メーカがバッシングの矢面に立たされている、自動車業界ではどうだろう。30年以上、近視眼的企業収益だけを追い、長期展望に立てない企業経営に明け暮れてきたビックスリーは、サブプライムローン破綻に伴う大不況で、政府支援を受けざるを得ない状況に陥ってた。トヨタ叩きの結果、一時的な売上アップは見られたが、これも長くは続くまい。
自動車規模の製品になると、パソコンのように部品をかき集めてきて、単に組み立てれば済む製品ではなくなる。新規開発車種では、自動車としての全体機能を押さえた上で、それぞれを支える機能部品を、各サプライヤーに開発させ、織り込んでゆかなければならない。最終アッセンブリーメーカ及び各サプライヤーの基盤となる技術力が求められる上、それぞれの“すりあわせ”が適切にでき、初めて成り立つ“物づくり”である。
トヨタのブレーキ問題であったように、本来ならデンソーなどの部品を使いたいのだが、現地調達率の都合上、米国部品メーカの部品を使わざるを得ず、生じてしまったリコール問題でも判るように、極めて難しい製品であり、企業としての総合力が求められる製品である。そして他の機械製品の多くも、同様だ。
そしてこの企業としての総合力は、近視眼的な短期収益だけを追い、短絡的に人員整理を繰り返すような企業経営では到底成立し得ない。ビックスリーの労働者達はUAWに守られ、安易な人員整理はなされない。しかし近視眼的な企業経営を続けた結果、長期的展望に立った企業力と言う面では、我が国メーカに大きく劣っている。短絡的な人員整理を繰り返すと言うことは、“ダメ経営者”達がそのお手本とする欧米流企業経営者以上に、自社を弱体化させていると言うことに他ならないのである。
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