約20年前のバブル崩壊以来、我が国製造業の地盤沈下は著しい。この30年余り、多くの製造業の製品開発現場を、つぶさに見てきた私の現状認識は、我が国製造業の将来に対して、極めて悲観的である。一部の信念を持った所を除き、我が国製造業に取って、最も重要な基盤となる筈の、人材力の面で、驚くほど弱体化している事実があるからだ。
バブル崩壊以前の1970年代80年代には、終身雇用と全員参加意識に培われた人材力を基盤に、極めて高品質でマーケットインした製品を、適性価格で大量供給し、世界中のマネーをかき集めていた状況を顧みると、余りにも変わり果てた凋落ぶりである。
圧倒的な工業力の差に、敗れるべきして敗れた終戦後、ほとんどゼロからスタートした我が国製造業は、“20年も掛けずして、世界を席巻できる工業製品を、世に送り出せるようになった”。その後“戦後復興””高度成長“と言う言葉で簡単に括られ、ともすれば政治主導による成果と評価されている。
しかし、物作りをその価値観の根底に置く私の観点では、この事実は実は、途方も無い、歴史的に誰もできなかった、今後も誰もこれに追従できないレベルでの、我が国製造業が成し遂げた快挙ではないかと評価している。
今急激に進化を進めている中国製造業は、その近代化に着手して既に30年近く経っている。最初は、1980年代半ばの我が国製造業に代表される、安価な人件費を求めての製造現場移転の試みであろう。しかし、政治的な様々制約や人件費高騰で我が国製造業の撤退が相次ぐと、雨後の竹の子のように現地企業が起業するようになった。そしてこれらの製造業は、我が国のベテランエンジニア達を大量にその技術指導に取り入れて来た。また優秀な若者達が、大挙して我が国の大手製造業で学び、帰国して様々な製造業を起業している。にもかかわらず、世界中の中国製品ユーザは、未だ安さ以外でその製品を購入しているとは思えない事実がある。
一方、最近では一部製品で我が国製造業を席巻し、ほとんど遜色のない製品開発が行なえるようになった、韓国製造業の例を振り返ってみる。1965年の日韓国交正常化以降、戦後補償的な意味もあり、当時発展途上にあった我が国大手製造業は、その意はともかくとして、政治的に導かれて韓国企業への技術移転を始めた。
1973年の八幡製鐵などによる浦項製鉄(現ポスコ)支援、現代自動車は1968年の創業だが1973年から三菱自動車の技術支援を受け、ランサーのプラットフォームを使った初の韓国国産車「ポニー」を1975年に発売している。同社は、エンジンも含め三菱の技術の延長上にある。サムソンは、1969年の創業以来、当初は三洋電機やNECと提携し日本市場向けの白物家電やAV機器の生産がその始まりだ。1980年代に入ると、主に東芝の半導体技術を様々な手段を講じ手に入れることで、現在ではインテルに続く世界第二位の半導体生産ランキングにまで上り詰めている。
製造業が技術導入により急速に発展することは、我が国製造業が通過した高度成長時代も同様だったため、同じ土俵と考えたとしても、韓国製造業が我が国製造業と互角(?)に戦えるようになるまでには、30年以上の歳月を費やしている。
以上の例を冷静に考えたとき、我が国製造業が成し遂げた、“20年も掛けずして、世界を席巻できる工業製品を、世に送り出せるようになった”は、如何に偉業だと言うことを理解頂けよう。ではなぜ、このような偉業が我が国の製造業で実現できたかを、工学史的な観点で分析してみる。
一義的には、分をわきまえない愚かな軍部の妄想と、何事にも責任を負おうとしない官僚達が、300万人を越える日本国民を犠牲にした事実に異論を挟む余地はないのだが、一エンジニアとして太平洋戦争を歴史的に見たとき、米国との工業力の差という決定的な弱みを、我が国には認める。
戦前の我が国製造業を見渡したとき、安定品質で大量に製品を作り出す技術がまず欠落していた。要するに品質管理と、計数に基づいた物作り管理の技術の欠落である。
このため、開戦直後は最も強力と言われた(軍部とマスコミが吹聴?)零戦は、米国が反撃態勢を整えると、あっという間にその制空権を失った。その最大の原因は、故障して飛べない零戦(他も含め零戦と総称)の存在だ。また戦闘以外で墜落する零戦の存在も問題だった。
品質管理の不在による、部品の耐久性能不足と、とてつもない部品寸法のバラ付きで、他の機体から取った部品で修理ができず、次々と飛べない零戦だらけになった。さらにやっと飛べても、敵機や敵鑑に出会う前に墜ちてしまったのでは、話にならない。このほかにも、様々な工業力不足による致命的弱点が積み重なり、我が国と米国との圧倒的な戦力差になった。
二つ目は、マーケッティング力の不在である。そもそも軍事力増強の目的で育ってきた我が国主力製造業(戦前の最大の稼ぎ頭である繊維などを除き)は、基本的にプロダクトアウトの姿勢を持っていた。顧客は“軍”以外は存在せず、全ての価値観は兵器としての性能機能であり、直接使用する兵士達の都合など一顧だにせず、あらゆる製品が開発されていた(少なくともたまたま直接見る機会があった、複数社の、当時の設計書や計画図から判断して)。
例外的に、民間をターゲットにした豊田の乗用車や、松下の電気機器などの存在は認めるが、これらはあくまでも少数勢力にしか過ぎなかった。また当時稼ぎ頭の繊維などは、原材料としての品質と、その価格で海外市場で稼げたため、私が調べた限りでは、システマティックにマーケットインを行っていた痕跡が認められなかった。
このため、“よく売れて”“喜んで使って貰えて”“稼げる”製品開発を行う、そのためにマーケットのニーズを的確に、論理的に把握して、そのニーズを製品開発に織り込むなどと言う、“マーケットイン”など言う、考え方そのものが存在しなかったと考えても良い。
そして敗戦の原因を冷静に判断した工業人や、本流からは外れていた品質管理研究者達が、“品質管理”の手法の考え方を、当時米国では無名に近い存在だったデミング博士を招聘して、積極展開した事が、この画期的な偉業を成し遂げる、きっかけになったと私は理解している。
余談だが、そしてこのデミング流品質管理は、TQCとして我が国で花開き、1980年代には米国に里帰りし、コンカレントエンジニアリングなどの新しい考え方を生むことになる。
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