20年前のバブル崩壊以来、我が国製造業の一時しのぎ、弱腰経営が一向に改まらない。なりふり構わぬリストラ策に始まり、その場しのぎとしか思えない、戦略性を蔑ろにした生産拠点の海外移転など、我が国産業界が被った傷口に、さらに塩をすり込むような、これら企業の愚かな生き残り策は、我が国経済を、一向に回復できない状況に陥らせている。
その中でも最大の問題点は、若年層の大幅な所得減少である。新卒学生達には異常とも言える就職難が襲いかかり、また正規雇用からあぶれた多くの若年層は、その低所得に喘いでいる。40歳超のフリーターが、石を投げれば当たるほど蔓延している事実は、どう考えても正常な姿ではない。
これではいくら子供手当などを篤くしても、そもそも結婚できない若者が氾濫し、少子化が収まらないことは明らかだ。このままでは、間違いなく我が国の衰退が続き、露骨な覇権主義を持つ中国などに、侵略・支配され、結局は消滅してしまう危険性すらある。
一方製造業の経営者達の多くに言わせれば、「我が国のマーケットは、既に衰退期に入った。国際市場で稼いで、生き残るしかない。当然物づくりは、“マーケットの近くで”が鉄則だ。だから我々は国際企業として、脱日本を実践しているのだ」。と国内雇用や国内景気の浮揚などは、全く念頭に無い返事が返ってくる。さらに「法人税を下げなければ日本を出て行くぞ」と、政治に対して恫喝さえ行っている。
株主に可能な限り高率な還元を行うことが、経営者達の最大の使命と言う価値観であるならば、当然の方向性かもしれない。また海外投資家などからの厳しいプレッシャーの下では、やむを得ないという声もある。
しかし、それぞれの企業には、その成長の歴史の中で、身を粉にして成長を支えた社員やその家族達、陰に陽にその成長を手助けしてきた周辺社会など、知らん顔を決め込み、ドライに割り切ることが許されない、社会とのつながりや義理があるはずだ。
特に我が国製造業最大の強みである“物づくり力”は、少なくとも戦後の高度成長以降、それに携わった社員達が、寝食を惜しんで築きあげてきた物だ。また国民の殆どは、良きユーザとして、それぞれが生み出す製品(商品)を、挙って買い続けてくれ、それぞれの経営を安泰な物としてくれた。
確かにニッサンのゴーンのように、欧米流の企業経営スタイルの中で育ち、突然欧州から落下傘で舞い降りてきた経営者には、この過去の経緯や恩恵は理解できないかも知れない。しかし多くの我が国製造業の経営者は、我が国高度成長の終盤期から、我が国企業の風土の中で育って来たはずだ。
このような彼らの口から、企業の社会的使命を忘れた、上記発言が平気で出てくることそのものに、我が国崩壊の危機を私は感ずるのである。
また、彼らのこの意識が、違法であろうとも低賃金を享受できる、“偽装派遣”を生みだした。さらに、これが問題視されると、政治的な圧力の結果、派遣労働範囲を拡大させた。結果、非正規雇用が堂々と大手を振って通るようになり、若年層貧困の元凶となった。
このような国内製造業の低賃金追求は、別な形でも若年者の雇用を奪っている。先日奇しくも、三重の亀山で起こった交通事故で露見したのだが、時給800円で単純作業を担う労働力に、外国人出稼ぎ派遣労働者を、大量に利用していたことだ。シャープではないが、その下請け工場でだ。
確かに中小下請け企業にとっては、社会貢献などとは言っておれない、背に腹は代えられない事情がある。なぜなら安い賃金では、若者達が集まらず、かといって元請けからは、度を超えたコスト削減を要求され続ける。このため勢い、文句を言わない、すぐ辞めない、安い労働力の外国人出稼ぎ派遣労働者を、利用せざるを得ないからだ。その結果若年労働者達の貧困がますます進むと言う、悪循環、負の連鎖が既に始まってしまっている。
一方“安価な労働賃金“を求めた生産拠点の海外移転は、当初は、東北地方などの低賃金生産拠点の海外転出がその主立った物だった。しかしこの十年来、我が国の主力に近い生産機能が、次々と海外移転を行っている。特に偽装派遣がやりづらくなった数年前より、その加速化は著しい。そしてその移転先も、中国が危なそうと分かれば、一斉に東南アジアシフトをしている。
この面からも、我が国製造業には、若者達のまともな働き場所がどんどん減ってしまった(図1)。これも著しい若年層貧困の元凶である。
「自己責任」と言う言葉が、流行った時代がある。小泉・竹中路線を強く推し進めていた輩から、この言葉が乱発された。イラクでボランティア活動に身を捧げていた、高遠さんなどに対して、「自己責任」と言う言葉の下、言われ無きバッシングが降り注いだ。
しかし今になって思うと、老練な彼らは、小泉・竹中路線の経済政策が、若年者の貧困を蔓延させ、近い将来の社会不安を生み出す可能性を、見越していたのではないのだろうか。だから「自己責任」と言う言葉を、高遠さんのようなケースでも盛んに用い、将来に備えていたとしか思えてならない。「自己責任で何ともなる自助努力を怠った結果、若年貧困に陥っているのだから、政治責任でも社会の責任でも無い!」と居直るためだ。そのための布石を、しっかりと打っていたと言うことだ。
しかし現実には、このような詭弁でしのげる状態は、既に過ぎている。私が改めてここで提示しなくても良いのだが、1959年から10年ごとの年齢別人口分布の推移を見て欲しい(図2)。既に1980年に人口分布は、ピラミッド構造から、老人国家の象徴である釣り鐘構造に近づきつつあった。そして未だに、抜本的な手直しが行なえずにいる社会保証制度は、この時点で既に維持できないことが、社会保証制度の専門家達には判っていたはずだ。私でさえ分布図から読み取れるのだから。
そして2009年に至っては、釣り鐘構造からさらに悪化し、尻すぼみの“矛の先”構造と言っても良い状態にある。“老人だけの国家”も、もう直ぐだ。いや既に到来しているのかも知れない。
そしてさらに始末が悪いのは、上記した若年層貧困が、これまで以上の出生低下を招き、幼年層の人口が激減することになる(結婚できないのだから必然だ)。そうすると自ずと10年後20年後の働き手は、大幅に減少し、我が国は存続さえ危うい危機状態に陥ることは必定である。
一部には、東南アジアなどから、積極的に若年労働移民を受け入れよという声がある。既に“矛の先”形状化した、いびつな人口構造を少しでも解消しようとする、安易な発想だ。しかし受け入れた若年移民達は、老人化した我が国国民を、本当に優しく守ってくれるだろうか。
コリアンタウン化した新大久保界隈を見ても、風紀がすっかり乱れきり、治外法権化した西池袋を見ても、一昨年の長野の大騒動を見ても、受け入れた移民達が、おとなしく我が国の文化や伝統を受け入れ、それらを守りながら、老人達を優しく見守ってくれるとはとても思えない。最近では山手線中でさえ、異国を感じ恐怖を覚えることが度々ある状況だ。
安易な移民受け入れは、社会不安を招くことが既にEU諸国で実証されている。極端な言い方をすれば、いずれは彼らに、我が国を乗っ取られる羽目になる。乗っ取られなくても、その宗教や文化の違いから、移民間での紛争が生ずることは必定だ。
特に本国政府の指示に、一糸乱れず従う中国系移民と、排他的な一神教を盲信する、インドネシアやフィリッピンなどからの一部移民間での争いは、うっかりすると内乱状態を引き起こす可能性さえ危惧される。それを警備・鎮圧するのが、タイや台湾からの移民警察隊では、とても笑い話にならない。
さてこのような危機状態から、我が国が短期間で脱出する方策はあるかだが、私は必ずあると信じている。そしてその原動力は、我が国の高度成長を支えた製造業以外にはないと考えている。
なぜなら、我が国製造業には戦後30年間こつこつ積み上げた、極めて高い固有技術と継承技術がある。さらに、それらを支えてきた経験豊かな人材が、まだその殆どが生存している。それぞれの企業にとっては、その多くが散逸してしまった感はあるが、今なら再雇用など、話の持って行き方次第では、再参集可能だ。
またバブル崩壊以降続いた新卒学生達の就職難は、巷に埋もれた人材を数多く埋もれさせている可能性がある。バブル期に採用をし、既に高級取りとなってしまった“役立たず社員”より、磨けばよっぽど役に立つ人材が、世に埋もれている可能性が極めて高い。
さらに、第一次産業はもとより、三次産業などにおいても、極めて狭い採用環境は、裏を返せば、優秀な人材確保の絶好のチャンスである。
そして意識の高い製造業は、このチャンスを生かして、10〜30年後のワールドワイドマーケットで、確固たる勝ち組となるための、人材面を中心とした、周到な布石を引くべきだと考えている。