TQCに取り組んだ製造業ではマニュアルが盛んに作られた。設計マニュアルも例外ではない。TQCでは設計技術(固有技術)の確実な継承を目的として、この設計マニュアルの作成設計者に強く求めた。そして本当に役立つマニュアルかどうかはともかくとして膨大なマニュアルが多くの製造業で残されている。
そもそも設計マニュアルは、人材流動の激しい米国の企業文化の中で生まれている。第2次世界大戦以前から米国の優秀な設計者達は、常にキャリアアップを意識し、どん欲に知識や技術を吸収する事で自己のスキルアップを絶えず心がけている。そしてチャンスがあれば瞬時の判断で、よりペイの高い、より責任を任される仕事(企業)へと転職を行う。私自身が現役設計者だった頃、提携先のエンジニアとして一緒に仕事をし、今も付き合いのある米国のエンジニアなどは、若い頃は3年から5年ペースでキャリアアップを図っていた。
この様な状況下にある米国企業は、徒弟制度的なやり方での企業として持つ固有技術の伝達は殆ど不可能な状態であり、また優秀なエンジニアに抜けられた後の凌ぎの問題も抱えていた。この様な環境から設計マニュアルは生まれてきた。企業として持つ固有技術はしっかり明文化し、論理的な裏付けも付けられる物はしっかり付けマニュアルとして残す文化を生み出したのだ。またキャリアアップで渡り鳥のように企業を移り歩く優秀なエンジニアの持つスキルも、スキルの提出をペイの条件として、その在社中にしっかり絞り出させマニュアルとして残させる仕組みが作られていた。この様にして米国製造業のマニュアルは進化してきた。私自身が現役設計者だった頃に米国企業との共同開発で経験し、直接活用した米国製造業の設計マニュアルは「素晴らしい」の一言に尽きる代物だった。
一方終身雇用制度が一般的であった我が国製造業の場合、米国のような事情による設計マニュアル化の必要性はほとんどなかったと言えるだろう。この面からだけでは徒弟制度的なやり方でも十分に固有技術やスキルの伝達が図れたわけだ。かつての多くの我が国製造業はまさにこの状況でよかったのかもしれない。
しかし1970年代の我が国製造業は、高度成長のまっただ中にいた。私自身が新入社員で配属された設計部は部長以下100名強の組織だったと記憶しているが、なんと学卒・院卒新入社員だけで20名以上がこの部に配属される状況だった。この様に急激に設計組織の人員が増え、その開発品目も急激に増える状況では、のんびりと徒弟制度的に技(ワザ)を伝えるなどとの、悠長な事は言って居れない状況に変わってきた。
この様な状況下で、漏れなく固有技術やスキルを伝達する手段は設計マニュアルしかなく、TQCが設計マニュアル作りを多くの製造業に強く求めたのには、このような事情があった。
まだ一部の我が国製造業には、固有技術やスキルの伝達は全て人間系で行われているケースが少なからずある。そしてその問題に気づいたところは、設計情報のDB化への取組をPDMなどのツールを使って始めるのが一般的だ。しかし多くの場合、そこに登録されているノウハウを見る限り、申し訳ないがほとんど空の状況であり、的確に固有技術やスキルを伝達する手段として機能できるまで充実できるには相当の努力と年月が必要になる状況が現実である。
またこの様な仕組みも大事だが、これはあくまで情報共有化の一手段であり、標準としての設計マニュアルではない。その内容を自分の設計に採用するかどうかは設計者の意の赴くままでしかないからだ。
このような製造業での一般的な問題に、設計者毎の設計思想の不統一の問題や、同じ失敗を繰り返す問題がある。これらの問題を解決する手段の一つとして、設計情報の共有化は役に立つだろう。しかし先に述べたよう単に情報を共有化しただけでは、その情報を自分の設計に採用するかどうかは、設計者の意志次第と言うことだし、設計者が公開された情報を取りに行かなければ全く役に立たない。これでは先に挙げた問題を解消する取組としては弱すぎると言えるだろう。
一方設計マニュアルは標準だ。要するに設計のルールであるわけだ。一般に設計マニュアルとして標準化された部分は、それ以降の設計ではそのマニュアルを逸脱した設計を許されなくなる。そのマニュアル策定当時と全く技術環境が異なる状態になった場合や、法律などの規制項目が大きく変わったとき以外は、その逸脱は許されない。当然技術的裏付けを持ってそのマニュアルをルールに基づき改訂して行くことは可能であり、多くの勝ち組企業の場合は、この様な状況に陥る前に時流に即した改訂がしっかり行われている。
商品開発の生産性向上を妨げている一因でもある商品毎、設計者毎の設計思想の不統一の問題や同じ失敗を繰り返す問題は、しっかりした設計マニュアルを作り上げることで回避できるようになると考える。
最後に一点注意事項がある。かつてTQCの時代に創られたマニュアルは、どちらかと言えば"べからず集"であり、理由を抜きに結果だけを記した物がほとんどである。技術革新があまり無い製品ではこれでもまだ良いが、技術革新の激しい製品では、このようなマニュアルではたちまち陳腐化してしまう。なぜそのような設計に至ったのか、なぜそのような設計にしなければいけないのかの意図が伝わっていないからだ。これでは応用が利かせ様もない。
一方、設計のプロセスに従い"何を考え""何を注意し""何を押さえながら"設計を進めればよいかが明確に示されたマニュアルだと、多少大きな技術革新があったとしても応用は容易に利くし、周辺商品への展開もはかれる。私の言う設計マニュアルとはこのようなマニュアルを指している。